(あなたに、知って欲しかった)
 懐かしい声がする。夢の中でしか聞けない声。覚めたらすぐに忘れてしまう声。
(だけど……)
 それはひどく悲しそうで、私はどうしてと繰り返す。
 どうしてそんなことを言うの。
 だって、私は







 
アメイジング・グレイス







 
 二人はごく普通に出会い、ごく普通の恋をして、ごく普通の結婚をしました。

「なんですか、それは。アイリーン」
 寝台から降りようとする足を止め、夫は私を振り向いた。
「そんな出だしの物語があったのよ。カーティスは聞いたことない?」
 私は寝そべったまま、彼に腕を伸ばす。愛されたばかりの身体は、まだ動くのが億劫だ。
 彼は私の手を取って、訝しげに首を傾げた。
「いいえ、まったく。どうしたんです、急に」
「別に。ただ、私達とは反対だなあと思って」
 くすくすと笑いながら言うと、強い力で手首を掴まれた。苛立ったような声がする。
「普通になりたいあなたに、普通でない僕が恋をして、普通でない結婚をさせてしまった。分かってますよ、それくらい」
 私を見る瞳はどこまでも冷たく、暗く。だけど、
「それで、あなたは僕を捨てますか? ……そんなこと、僕がさせるとでも?」
 だけど、少しも怖くない。だって今、怯えているのは彼の方。
「分かってないわね。私だってあんたに恋をしたのよ。だからついて来たんだわ」
「そう……、そうですね」
 彼は小さく微笑んだ。
 貼り付いたような笑みに私はため息を押し隠し、彼を手招く。
 束の間ためらった後、彼の身体が私の横に滑り込んだ。いつもなら、来るなと言っても来るような人だが、今は妙に殊勝だ。
「どうしたの。まさか、あれが気になるわけでもないでしょうに」
 私は部屋の隅に転がっている物を目で示しながら問いかけた。
 かつては生命を持っていたそれは、今はもう、ただの物体だ。彼がそう造り変えた。
「違います。ただ、あなたが好きではないだろうと思って」
「そうね」
 確かにそれを好きとは言えない。いくら犯罪大国の王女だったとは言え、死体を好きになれるわけがない。
 私は彼の胸に顔を埋めた。途端に部屋に充満している匂いが遠ざかる。生々しく満ちる、濃い血臭が。
 どれ程血の海を作ってきたか知れない人の身体で血の匂いが消えてしまうなんて、たちの悪い冗談のようだ。彼の身体は、返り血ひとつ浴びていない。
「だから早く片付けてしまおうと思ったんです」
 言い訳がましく彼は言った。
 変な人だ。
 知り合ってから何度思ったかしれないことを、またも思う。
 もう数える気にもなれない程の刺客を、惨く鮮やかに殺したのは彼だ。そうしてその度に、まだ温みの残る死体を前に、私を求めるのも。
 殺すことしか出来ない彼の精一杯の求愛に、私はまんまと誘われる。
 私達の睦言は、いつだって血と死の匂いで満ちていた。
 今更、目の前からそれを隠してみたところで、何も変わりはしないのだ。
 呆れながらも、心が和む。
 彼はまだ、彼なりに普通に近づけようとしてくれている。……私のために。
 だけどいつもそれは的外れで、その度に彼は臆病になる。
 普通でいなければ私が離れていくと怯えているくせに、引き止めるために普通でない方法しか思いつけない。
 矛盾ばかりの可哀想な人。それが私の夫。
「急がなくていいわ。今更だもの」
「……すみません。僕はちっとも、あなたの気に入るように出来ない」
 呟いて、目を伏せる。まったくいつもの彼らしくなくて、ずきりと胸が、嬉しくて疼いた。
「そうじゃなくて、そんなことしてる時間がもったいないって言ってるの。夜はそんなに長くないのよ」
「アイリーン?」
 彼の首に腕を回して引き寄せた。触れるだけのキスをして、瞳を合わせる。
「それとも、何処の誰とも知らない死体の方がいいってわけ?」
 精一杯冗談めかして言うと、彼の表情が柔らかくなった。
「まさか。僕の奥さんよりいいものなんて、ありません」
 合わせるように軽い口調で、だけど瞳が揺れている。
 気付かない振りをして、私は夫を抱きしめた。



 私を愛している彼の、悲しそうな瞳が好きだ。
(ごめんなさい)
 それは、言葉にならない彼の心。
 
  ごめんなさい
 (あなたの期待に応えられなくて)
  ごめんなさい
 (あなたの望みを叶えられなくて)
  ごめんなさい
 (あなたを失望させても、憎まれたとしても、僕は、僕の望みを優先させることしか出来ない)

 その不安は全部私のため。
 罪の意識を覚えるなんて、きっと生まれて初めてでしょう?
 馬鹿ね。
 あなたはとっくに私の望みを叶えてくれている。
 ただ、あなただけが。



 夫の指が、私の髪をゆっくりと絡め取る。絡めて、解いて、繰り返し。
 人を殺すことが何より上手なこの手は、私にだけはとても優しい。
「あのね、カーティス」
 私は彼に身を預けたまま呟いた。
「もしもいつか、私が殺されたら」
「……何を言ってるんですか」
 言葉を紡ぎ終わる前にきつく抱きしめられた。
 低い声は、ひどく尖っている。うっすらと殺意を感じさせる程に。
「僕がそばにいる限り、そんなことはあり得ません。絶対に」
「分かってるわよ。もしもだって言ってるじゃない」
 嘘だ。
 その日はいつかやって来る。不思議な確信を込めて、そう思う。
 彼は最強の暗殺者。引退した今でも変わることはない。
 見惚れる程に美しい、殺しの妙技。それは限りなく完璧に近く、けれど。
『けれど、完璧ではありません』
 昔、聞いた言葉を思い出す。
 まだ私が砂漠の国の王女で、彼は暗殺者の長で、お互いにお互いを、こんなに近く思ってはいなかった頃。
 気晴らしのダーツで、最高に近い点を叩き出しながら彼は言った。
 どんなに完璧に近くとも、決して完璧ではない。
 自分で、そう言ったのだ。
 だったら。
 完璧でないのだったら、絶対こそがあり得ない。
 ……だから、私は知っている。
 いつか、刺客の刃が彼をすり抜け、私に届く時がやって来る。
 知っていて、私は目を瞑り、口を閉じる。
 私を守れるのはこの世に彼だけ。
 それだけが彼を、ほんの少し、不安から解放するのだ。
 だから私は戦わない。私の命を守らない。
 この命は、彼にしか守らせない。
 そして、終わらせるのも。

「もしもだって、聞きたくありません」
 駄々っ子のように彼は言い張った。
 きつい口調は怯える心の裏返し。何て愛しい人だろう。
「とにかく聞きなさいよ。いい?……もしもいつか、私が殺されたとしても、決してすぐには死なないわ。あんたを私の手で殺すまで」
 驚いたように目を見開く彼に、私はくすりと笑いかける。
 きっと、さぞかしギルカタールらしい笑みだったに違いない。もう帰ることのない私の故郷。
「最後の力で、殺してあげる。だからその後、私にとどめを刺してね」
「殺されてから、とどめを刺すんですか」
「あら、出来ないの? カーティス=ナイル」
「いいえ。……いいえ、アイリーン」
 そうっと彼は呟いた。吐息のように小さな声で。
「……嬉しい」
 甘えるように顔を寄せる。ぎゅっと私を抱きしめながら、何度も何度も。
「忘れないでね。カーティスが最後に殺すのは私。そして、私が殺す最初で最後の人間は、カーティスよ」
「仰せのままに。プリンセス」
 もう、誰からも呼ばれることのない称号で私を呼ぶと、彼は恭しく私の指先に口付けた。
 王女だった頃は彼にこんな風にされたことなかったと、ふと思う。
「どうしよう。ものすごく楽しみになってしまった」
「何言ってるのよ。もしもの話だって何度も言ったでしょ」
 出かける前の子供のようにはしゃぐ彼に、私は呆れた顔をしてみせた。
 本当は全然呆れてなんかいない。むしろ予想通りの反応に、泣きたい気分になる。
 だけど私は、殊更おどけた口調で言葉を続けた。
「本命の人生設計は、お互い白髪頭でしわしわのお爺さんとお婆さんになって、近所中から嫌われる因業夫婦になることなんだからね。せいぜい努力してちょうだい」
「ああ、それも悪くないな。何だか『普通』っぽいような気がします」
「分かってきたじゃない」
 顔を見合わせて笑う。そんな日はおそらく来ないだろうと、二人とも分かっていて。
 まるで遠い異国を夢見るようなものだ。
 行けるものなら行ってみたいが、行けないのならそれでも構わない。 
 選べと言うなら、迷いもなく切り捨てられる。
 それほどに私は、今いるこの場所を愛している。
「それでもやっぱり、最後は僕に殺させて。そして殺してくださいね」
 どうしようもなく物騒で臆病な、夫が微笑むこの場所を。







(あなたに、知って欲しかった)
 懐かしい声がする。夢の中でしか聞けない声。覚めたらすぐに忘れてしまう声。
(だけど、こんな形ではなかったのに)
(どうして?)
 私は微笑みながら答えを返す。
(だって私はあの人を愛している。そして愛されているのよ)
 誰よりも、何よりも、一番に。
 この震える程の喜び。
 それがあなたが私に教えたかったこと。
 だけど、与えてくれなかったことだ。
(でも、あなたは結局『普通』にはなれなかった)
(いいえ)
 あれほど普通に焦がれたのは、欲しいものを手に入れるため。
 手にしてしまえばもう意味はない。……いえ、違う。
(これだってちゃんと、『普通』なのよ)

 普通でない私は、普通でない彼と、普通でない恋をした。
 そしてきっと、普通でない結末を迎える。

 でも、それが何だと言うのだろう。
 私達は愛し合っている。
 それは、この世の何より普通のことなのだ。

(だから、いいの)
(……そう)
 少し寂しそうに言って、声はそれきり聞こえなくなった。
 
 






 目を開けるとそこには、眠る私の夫。むせるような血の匂い。その向こうに広がるのは赤い海。
 それは、いつか私もその中に沈むだろう海。
 怖くはない。そして、悲しくもない。
 ここは夫が創り出し、最も美しく君臨する場所。
 そしてその時には、彼も共に沈むのだから。
「だから、いいのよ」
 夢現に私は呟いた。伝えたい相手はもう、思い出せない。
 ……欲しいものがあった。きっとずっと昔から。
 そのためにすべてを捨てた。
 そして、すべてを手に入れた。

「愛してるわ。カーティス」

 応えるように夫の腕が、私を強く抱いた。

 













 よわよわなカーティスを書きたいと思ったのです。だったらやっぱ駆け落ちEDでしょう。したら、妙に乙女入ってしまったような。物騒なことには変わりないが。
 あと、このEDでプリンセスが守られてるだけなのは何でだろうと疑問もありまして。だってモンスターをあれだけぶった切ってきたんだから、ちょっと鍛錬すれば刺客の一人や二人はいけそうじゃないですか(笑)。
 分かりやすくしようと前世夢ネタ入れてみたけど、かえってわけ分からないかも。それ以前に、W&M未プレイではあるが、アリシアは絶対にこんな甘っちょろい性格ではないと思います…。
(07.02.24)


戻る