アノコニチカヨッテハダメ。サワッタラビョウキニナッチャウヨ。


 それは、日常的に繰り返されるありふれた出来事。


 「いちいち気にしてらんないってばよ」
 いつものことだからと、ナルトは笑った。







 道で転んだ時、ハンカチを差し出してくれた小さな女の子。
 次の日に返そうとしたら、母親らしき女性に血相を変えて睨み付けられて。
 真っ白なハンカチは地面に叩き付けられて踏みにじられた。
 「ちゃんと新しいのを買ってったんだけどさ」
 おもちゃの飛行機を木に引っ掛けてしまった男の子。
 木に登って取ってきたら、近くに居たおじさんがすごい目をして飛んで来て。
 その子に渡す前に取り上げて、壊して遠くへ放ってしまった。
 「あの子泣いてたなあ。おにいちゃんのせいだって」




 ふと、ナルトは遠い目をして見せた。
 まるで懐かしむかのように、穏やかな顔で。
 「だからさ、サスケの服だから嫌って言ってるんじゃないってば」
 「・・・もういい」
 「あの服まだ十分使えそうだし、捨てるのもったいないってばよ」
 「黙れつってんだろっ!」
 気が付けばサスケは、胸に蟠る苛立ちをぶつけるように、一方的に怒鳴り付けていた。
 きかん気なナルトの事、いつもならここで耳を塞ぎたくなる程の反撃が返ってくる筈。
 だけど、今日は。
 ナルトは一瞬びっくりしたように身を竦め、大きく目を見開いて。
 そして、俯きがちに、ほんの少しだけ口の端を上げた。
 理不尽な仕打ちに合う度に(それは数えたくもない程あったに違いない)きっと浮かべていたんだろう、そう確信させる手慣れた笑み。
 「・・・・っ!」
 それを目にした瞬間、反射的にサスケはナルトの腕を掴んで廊下に飛び出していた。
 驚いたナルトがつんのめりそうになるのも構わずに、肉の薄い腕を痣が残る程に握りしめる。
 そのまま風呂場まで引き摺っていくと、そこに置いたままの着替えを投げ付けるようにナルトに押し付けた。
 「サスケ?」
 「とっとと着替えろ」
 「でも・・・」
 「オレが着ろつってんだから着ろよ。いつまでも濡れた服でうろうろされる方が迷惑だ」
 言い捨てると、サスケはナルトを残したまま風呂場を出た。




 サスケは足音荒く廊下を踏み鳴らしながら、殆ど駆ける勢いで部屋に向かう。
 やり場のない憤懣をぶつけられる床はその度に悲鳴を上げるが、そんな事を気にする余裕はサスケには残っていない。
 部屋に戻って叩き付けるように襖を閉めると、勢いでぱんと派手な音を立てて跳ね返った。
 自分を落ち着かせるようにサスケは大きく息を吐いて、もう一度ゆっくりと閉め直したが、いまだ表情は厳しく強張ったままだ。
 憤りに指が細かく震えているのに気付いて、それをきつく握りしめた。
 「あの馬鹿・・・」
 浮かぶのは、いつものことだからと、諦めた瞳で笑うナルト。
 それは多分、サスケが一番見たくないモノだった。
 何故ナルトが、里人にここまで厭われるのか、貶められるのか。
 その理由を、サスケは知らない。
 ナルトは言わない。
 誰も言わない。
 だから、サスケは今も昔もそれを知らない。
 けれどもう、そんな事はどうでもよかった。
 「畜生!」
 たまりかねて近くの壁を力任せに打ち付ける。
 木造とはいえ堅牢な造りの壁は嫌な音をたてて撓んだが、辛うじてサスケの拳に耐えた。
 目も眩む程の怒りに吐き気がしそうだ。
 (許せない)
 狂おしい程にそう思う。
 反吐が出そうな悪意を一方的にぶつける奴らと、ぶつけられるナルト。
 加害者と被害者のどちらもが、それを当然の事としているような奇妙な関係。
 忌々しくて、目眩がする。
 だけど、何よりも。
 『オレが触ったら汚れるんだって』
 『だから、もったいないってば』
 (オレを、あいつらと一緒にしてるんじゃねえよ!)
 何よりそれが、我慢できない。




 ややあって、はたはたと足音が近付いてくる。
 それはいつも賑やかで落ち着きのないナルトにしてはひどく小さな、そしてゆっくりとした足音だった。
 部屋の手前でそれは止まり、ほんの少し躊躇う気配が伝わってくる。
 構わず襖を開くと、びっくりしたような瞳が見上げてきた。
 「・・・借りたってばよ」
 どこか所在なげに佇むナルトを、サスケは無言で迎え入れる。
 どうやらナルトにはサスケのシャツは些か大きかったらしく、広めの襟ぐりが肩からずり落ちそうになっている。
 普段の服装からは分かりにくいが、こうしてみるとナルトの身体はひどく小さくて細い。
 身長はそこまで変わらない筈なのに、この首の細さ、肩や胸の薄さはどうだろう。
 「サスケ?」
 ぎゅっと握り込んでいる右手を取って開かせる。
 さかむけだらけの指は所々血の跡が残り、短い爪はぼこぼこと不規則な段差を刻んでいる。
 ナルトには、決定的に栄養が足りていない。
 身体も、心も。
 それは一朝一夕の事なんかではなく、もっとずっと前から、もしかして生まれ落ちたその時から。
 誰からも手をかけられることなく放り出されて生きてきた、証。
 「何・・・だってばよ」
 「寒くないか?」
 触れる指先はほんの少し冷たかった。
 不意を突かれたようにナルトは一瞬黙り込み、やがてふるふると首を振る。
 それを確認して、サスケはナルトを部屋の中へ押しやると、入れ替わりに廊下に出た。
 「しばらく適当に座ってろ。メシ作ってくるから」
 「メ、メシ?」
 「買い物してないから大したもん作れねえけど、贅沢言うなよ?」
 「い、言わないってばよ・・・じゃなくて、サスケ!」
 「オレは腹が減ってるんだ。雨は当分やみそうにないからな。一人で食うのも寝覚めわりいし、てめえの分も用意してやる」
 意図的に、いかにも偉そうな見下げる目線で言い放つ。
 こんな態度が大嫌いなナルトは、きっと反発して何か言い返してくるだろう。そう期待して。
 だけど。
 「・・・・オレの分?」
 ぼんやりと、ナルトが呟く。
 そこにある感情は、嫌、でも、嬉しい、でもなく、純粋な驚き。
 本当に思ってもみなかった事を言われた。ただ、それだけの。
 先程の憤りが蘇り、サスケは再び己の手のひらを爪が食い込む程に握りしめた。
 せり上がりかけた感情を無理矢理押さえ込み、大きく息を吐く。
 深いため息に、ナルトの肩がびくりと揺れた。
 「嫌いなものがあったら、先に言え。それと、雨がやまなかったら・・・・しょうがないから泊まってけ」
 辛うじてそれだけ言い捨てると、サスケはナルトに背を向けた。
 何か言いかけたナルトの返答も待たずに、不安そうな表情は見なかった振りをして。



 
 (オレは、違う)
 おまえを傷つける奴らとは違う。
 伝えたくても、言葉にする術をサスケは知らない。
 仮に伝わったとして、それから自分はどうしたいのか、その先には何があるのかも、まだ分からないけれど。
 確かなのはただ、ずきりと疼く胸の痛み。
 どうしても耐えられないから、それを取り除く方法を考えなければいけなかった。
  




 目を覚ますと、部屋の中はうっすらと明るくなっていた。
 半分開いたカーテンの向こうに見える世界は薄い藍色。
 降り続いていた雨は、夜半過ぎにはやんだようだ。
 ほのかにオレンジの帯がたなびく空の端には、夜明けに消える直前の月が淡く白くひっそりと浮かんでいる。
 どうやら、少しは眠れたらしい。自分も、・・・・あいつも。
 サスケは、まだ幾分ぼんやりした頭で考えた。
 背後から微かに聞こえる寝息の方へ慎重に寝返りを打つと、こんもりと盛り上がった隣の布団が目に入る。
 ナルトはまだ目覚めない。
 夕べ、サスケがなかなか寝付けずに過ごしたのと同じくらいの時間、ナルトも眠れずにいた筈だ。
 どうにかサスケに眠りが訪れたのはおそらく真夜中過ぎだっただろうが、ついにその時までナルトの寝息を聞いた覚えはなかったから。
 誰かとひとつ部屋にいること、他人の気配を感じながら眠りにつくことに慣れていない。サスケもナルトも。
 ひとつため息を吐いて、サスケはそうっと起き上がった。
 気配を殺しつつ、枕元の着替えを持って立ち上がろうとしたその時。 
 「・・・・サスケ?」
 薄い闇の中でもそこだけ鮮やかな青が、ぽっかりと開いてサスケを見た。




 「もう、起きる時間?」
 「いや」
 ふわあと大きく欠伸をしながら問いかけるナルトに、サスケは苦い思いをかみ殺しつつ答えた。
 おそらく、普段のナルトであれば、この程度では目覚めない。
 任務中、休憩時間が終わってもいぎたなく寝こけたままのナルトを起こすのに、カカシとサクラが四苦八苦していたのを何度も見た覚えがある。
 まして昨夜は、あまり眠っていないはずなのに。
 この眠りの浅さはどこからきているのだろう。
 ただ他人の家に慣れていない緊張感からなのか。それとも。
 傍にいるのが、サスケだからなのか。
 ・・・そこまで嫌われているとは、思いたくないのだけれど。
 「まだ寝てていい。もう一眠りする時間くらいある」 
 「サスケは?」
 「オレはもう起きる。朝練の時間だしな。だから・・・」
 気兼ねなくゆっくり眠れるだろうと言いかけて、それは果たせなかった。
 何となれば、その言葉を聞いた途端、ナルトは勢いよく起き上がったから。
 「朝練ならオレもする! おまえにばっか抜け駆けはさせないってばよ」 
 にいっと笑うその顔は、まったくいつものナルトで。
 ひどく複雑な気分で見ていると、ふとその顔が曇った。
 「あ、でもオレの服まだ乾いてないってば・・・」
 昨夜サスケから借りたままのシャツに目を落とし、ナルトは途方に暮れた顔をする。
 覚えのある苛立ちがサスケの胸に湧き起こるが、どうにかそれを沈めて、サスケは目の前の黄色い頭をぐりぐりと小突いた。
 「いってえ、何すんだってばよ!」
 「ぐだぐだ言ってんじゃねーよ。今着てる服だって朝練くらいできるだろ。それで不満なら、もっと動きやすいのを適当に選べよ」
 言いながら、部屋の隅に置かれた箪笥の引き出しを無造作に開き、ほらとナルトに指し示す。
 「柄にもない遠慮なんかすんな。ここまで世話かけたんだ。もう一手間くらいかけたって同じだ」
 別に手間って程のもんじゃないけど。
 と付け加えれば、ナルトはまたしてもひどく驚いたように目を見開いた。
 きっちり整頓された箪笥の中身とサスケの顔を見比べては、何か言いたげな様子を見せる。
 「・・・・別に、これでいいってばよ」
 けれど、逡巡の挙げ句に出てきた言葉は、ひどくたわいのないもので。
 知らず息を詰めていたサスケは、こっそり息を吐く。
 「そうか。言っとくが、それまだ使うんだからな。ちゃんと洗濯して返せよ」
 殊更に何でもないようにさらりと言って立ち上がろうとすると、くいっと服の裾を引っ張られる感触に引き戻された。
 「ちょ、ちょっと待ってってば」
 必死な目で見上げるナルトに、サスケは中腰のまま視線だけ合わせる。
 しかし、ナルトはまだためらうように、何か言いかけては口を閉じることを繰り返すばかりで。
 常であればこんな煮え切らない態度を取られたら、苛立ってキツイ捨てぜりふのひとつでも吐いて、さっさと立ち去ってしまうのだろうが。
 今、ナルトは何かひどく大事なことを言おうとしている。それが分かる。
 だから、サスケは何も言わずに、辛抱強く待っている。
 「あの、さ」
 きゅっと服の裾を掴む力が強くなり、そして。
 「・・・・ありがと」
 耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうような小さな小さな声が、サスケの動きを止めた。




 「ありがと、サスケ」
 ナルトはもう一度同じ言葉を繰り返した。
 先よりはほんの少し大きな声で、だけど躊躇いがちな口調はそのままに。
 それでも、固まったように微動だにしないサスケをどう思ったのか。
 ナルトはひどく困った顔をした。
 まるで、小さな子供がベソをかく寸前のような。
 「オレ、何か変なこと言った?」
 「・・・・何がだ」
 おそるおそる訊ねてくるナルトに、サスケはようやく答えを返した。
 ぶっきらぼうなそれに、それでもナルトは安心したらしい。
 ほんの少し表情を明るくして言葉を続ける。
 「あのさ、間違ってたらごめん。『ありがとう』ってこういう時に使うんだよな?」
 「こういう時?」
 「誰かから何かしてもらって、すっごいすっごい嬉しかった時、ありがとうって言うんだってばよ?」
 ずっと言わなきゃと思ってたんだけど、と、ひどく自信なさそうにナルトは問いかける。
 ぎり、とサスケは唇を噛む。
 血の味が口中に苦く広がるのも気付かずに、訝しげに覗き込んでくるナルトに向かって手を伸ばし。
 思い切り、抱きしめた。




 「サスケ?」
 驚きに一瞬固まる身体。戸惑う声。
 それでも逃げ出す気配がないことに、サスケは少しだけ腕の力を弱める。
 だけどその小さな頭は自分の肩に押しつけたままで。
 (見たくない)
 理不尽に切りつけられる痛みを、何もなかったようにやり過ごすことばかり覚えて。
 それなのに。
 『ありがとう』
 こんな言葉ひとつ口にするのに、一晩も迷うようなウスラトンカチ。
 多分これまで、その言葉を使った事も、使いたいと思った事もなかったのだろう。
 それがどんなに歪な事か気付きもせずに平気で笑う、こんな顔。
 絶対に、見たくない。
 「間違ってない」
 やっとの事で、それだけの言葉を口にする。
 「おまえは間違ってないから、だから・・・」
 辛いも寂しいも嬉しいもおまえの中だけで終わらせないでくれ、と。
 全てを抱え込んだまま笑わないでくれ、と。
 言いたくて、でも言えなくて。
 サスケはただナルトを抱きしめる。
 腕の中の身体は、所在なげにただ立ちつくすだけだったけれど。



 
 これは自己満足に過ぎないのかもしれないと、サスケは苦々しい思いを噛みしめる。
 (オレに、何が出来る?)
 ナルトの中の傷を、ぽっかり開いた深い空虚を、埋める術なんてサスケは知らない。埋められるとも思わない。
 サスケ自身生々しく血を流し続ける傷を抱えたまま、誰かを癒せる余裕などある筈がなく。
 それでも。
 色のない瞳をして寒そうに笑うナルトが、何も期待していない笑みが。
 ただ、痛い。
 かつて全てを奪い去られた時の、胸を抉り引き裂くような痛みとは違う。
 もっと微かでささやかな、多分無視しようと思えば出来る程度の痛みだ。
 けれどそれは、時が経つにつれ増すことはあっても、決して消えることはなく。
 何より、この胸を刺す苦しさから目を逸らすことが出来ない。逸らしたくない。
 そんなことをしたら多分、あの子供の中の自分の存在は、その辺の奴らと同じになる。
 無視し、貶め、排斥するしか能のない馬鹿達と同じに。
 それだけは許せない。
 譲ることができないから、手を伸ばさずにはいられない。
 
 


 「・・・・・サスケ」
 手持ち無沙汰に身体の脇に投げ出されていたナルトの両腕が、ゆっくりと動く。
 ためらいがちにサスケの服の端をそっと掴み、肩にかかる重みが僅かに増した。
 ナルトが抱えているもの、これからも背負わなければいけないものは、今のサスケには想像もつかない。
 支えきれないかもしれない。寄りかかられたら二人して倒れてしまうかも知れない。ひょっとしたら、サスケ自身抱えている荷を、新たに背負わせるだけになるかもしれないけれど。
 それでも、このおずおずと触れてくる小さな手が、いつか背中に回ってくれるといいと思う。
 今、サスケがしているように、縋るように抱きしめてくれるといい。
 嬉しい時には笑って、悔しいときには怒って、悲しい時には泣いて欲しい。
 (オレの、前で)




 たとえ自己満足であろうと、この気持ちが同情や憐憫だとは思わない。
 それが恋や愛と呼べるのかは分からないけれど。
 生まれて初めて抱く、きっとこの先他の誰にも持つと思えないこの感情の名を、きっとまだ知る必要はない。
 今はただ。






 「サスケ、昨日からちょっとヘンだってばよ?」
 「・・・悪かったな」
 「でも、ヘンなサスケも嫌いじゃないってば」






 腕の中で仄かに笑うこの存在が。
 心から大切だと、それだけを思った。










 とりあえず、サスケが何かうだうだ言ってます(笑)。多分この後は前向きになると思われる。
 前編からものすごーく間が空いたので、こりゃやばいと思って書いたはいいが、どうにもまとまりがない感じ(泣)。
 それなりに思い入れのある話ではあるので、そのうち修正して1本にまとめたいなあ。




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